「民主と哲学」リチャード・ローティ(訳:藤本拓自)
哲学は、西洋の政治思想がよじ登っていき、しかるのち脇へ押しやった梯子である。17世紀にはじまり、哲学は、西洋の民主的制度確立への道筋を明らかにする、重要な役割を演じた。哲学は政治思想を世俗化することでそれを行った──神の意志はいかにして実現されるかという問いを、人間はいかにしてより幸せな生活をおくることができるかという問いに置き換えることによって。哲学者は次のような提案を行った。人は、少なくとも政治目的のためには、宗教の啓示をちょっと脇へやっておくべきだし、人間が自力で存在しているように──感ずる欲求に応じ自分達の法と制度を自由につくり、新しい出発を自由にはじめる、そういう風に行動すべきなのだ、と。
18世紀、ヨーロッパ啓蒙運動の頃、政治制度と、政治的意見をめぐる運動との間にある差異は、様々な哲学上の見解を反映していた。旧体制に同情的な者は、革命的な社会変革を望む者よりは、唯物論的無神論者にはなりそうもなかった。けれども、そういった啓蒙運動の価値が西洋中でまったく当然のものとみなされるようになっているいまでは、それはもはや正しくない。今日では、政治が道を先導し、哲学が後ろからついていく。人はまず政治的展望を決めてから、しかるのち、そういった種類のことをお好みなら、哲学上のバックアップをさがす。しかし、そのような好みは選択的なもので、それどころか一般的でもない。大半の西洋のインテリは哲学についてほとんど知らないし、いっそう注意を払わなくなっている。そういった人たちの目には、政治的提案が哲学的信念を反映しているなどと考えることは、しっぽが犬を振り回すがごとき、本末転倒の考えなのだ。
私の批評における、哲学と民主主義の無関係というこのテーマを、これから展開していく予定だ。私が申し上げることの大半はわが国の状況に関するものとなるだろうけれど、そのほとんどが、ヨーロッパの民主主義にも同様によく当てはまると思う。そういったヨーロッパの国々では、合衆国と同様に、「民主主義」という語が徐々に2つの異なった意味を持つようになってきた。より狭い、最小限の意味では、自由に選ばれた公人の手中に権力があるような政治システムを指している。私は、この意味での民主主義を「立憲主義」(constitutionalism)と呼ぶことにする。民主主義のより広い意味において、それは、社会の理想、機会の平等を指している。この第二の意味で、民主主義とは、すべての子供が人生において同じチャンスを持っていて、誰も貧しく生まれたことや、奴隷の子孫であることや、女性であることや、ホモセクシャルであるといったことで苦しんだりしない、そういった社会のことである。私はこの意味での民主主義を、「平等主義」(egalitarianism)と呼ぶことにする。