「EU:帝国という亡霊」吉田徹

  • 「α-Synodos vol.0」
先月、某官庁からの依頼でEUの研究開発体制の調査研究のために、雨降るブリュッセルの街中を駆けずり回った。訪問先のひとつだった閣僚理事会のユーロクラット(EU官僚)の差し出した名刺には「Consilium」と、誇らしげに刷りこまれてあった。砂を噛むような説明を受けた後、修道院で作られたベルギービールを飲みながら、「典礼憲章」(Sacrosanctum Concilium)という言葉を思いだした。「典礼憲章」とは、第二バチカン公会議(1962年)で決められた礼拝の規則のことである。

連想は、酔った勢いでイマニュエル・ウォーラスティンの近作『ヨーロッパの普遍主義』へと飛ぶ。ウォーラスティンは、16世紀のインディオ征服に際してのラス・カサスとセプルベダによるバリャドリード論戦が如く、今のヨーロッパは(あらゆる帝国がそうであったように)「普遍主義という普遍性」というレトリック上の権力を有していると告発した。スペイン人が、キリスト教化のミッションを受けて南米を隷属させたように、EUは旧ユーゴ紛争に「人道的介入」という名のもとに隷属させたのだ、と。

文明をもたらすのがEUの使命だとして、それがConsilium /Conciliumだというならば、随分と悪い冗談である。「スペイン人は、大胆な勇気でもって、この新天地を侵略し、過去の世紀から何をも学ばず、君主の意に反して類まれなる恐ろしい罪を犯した」(ラス・カサス)。むろんウォーラスティンの批判は、文明の衝突論の亜流ではない。彼は、人権や経済成長といった「進歩」の概念そのものをヨーロッパが独占していることを問題視する。

20世紀における「帝国」(あるいは帝国的秩序)は、本来ならばアメリカの専売特許だった。アメリカは96時間以内に世界のどこにでも部隊を展開できる能力を持つ軍事超大国であり、デモクラシーと資本主義という20世紀最大のイデオロギーを武器にした帝国だった。ネオコンの理論家ケーガンは、アメリカは闘いの神マーズとして「アナーキーな世界でパワーを行使し続け」、愛の女神ヴィーナスたるヨーロッパは「平和で豊かな、ポスト歴史的な楽園」にいるとかつて診断した。



有料メールマガジンお申し込み
はじめに
バックナンバー
コラム
座談会
特別対談
連載
リポート
翻訳
編集後記

▲ページの先頭へ戻る
  Copyright © 2007 KAZUYASERIZAWA.COM (JAPAN). All rights reserved.