はじめに 〜シノドスの動機と方針〜
対談:芹沢一也×荻上チキ
荻上: そうですね。しかし、「運動」の場に一回的に召還される言説ってありますよね。どの時代にも、「運動」は何かしらの思想から言葉を借りて行われてきた。自由民権運動であれ、学生運動であれ、大衆意識を代弁する思想、自分達を肯定し現状を批判する言説があるというリアリティはその都度共有されていたわけです。今なら「私たちプレカリアート」「打倒ネオリベ」でもいい。しかし、そこで「運動」のために召還された思想的言説がベタに思想として成熟しているかのように捉えてしまうと、ある種のクリシェに陥ってしまったり、ネガティブな帰結を招いたりする可能性がある。
もちろん、それらに対して「大文字の思想」を持ってきて、「思想と言うのはもっとこういうもので…」みたいな議論をすることも間違っている。それこそお座敷主義というか、アカデミズム回帰になるだけです。
芹沢: 水を差すだけですしね。今の「現実」を掲げるような「運動」においては、おっしゃるように思想はクリシェとしてしか機能していない。たしかに、クリシェ化した思想のみが「運動」を立ち上げ、鼓舞するというのは歴史的な事実です。そうした意味でのクリシェの効能は否定しようがない。だけどそれが「運動」を盲目なものにしてしまうというのも、同じように歴史的な事実です。でも、それに対して高みから相対化してもしょうがない。それこそ貧しい出会いです。より具体的に豊かなものとするために、現実や運動と、理論や思想、歴史が交錯していくためのメディアを作る必要があるんです。
荻上: 複数のテーマと文脈とを結びつけるような議論の場、それが必要だと思います。もちろん、そういうメディアを作ったところでガラリと状況が変わるわけではない。それに、僕は何か一つのメディアがそれを担うべきだとも思わない。複数のハブメディアが有効に機能するのが望ましいと思います。書籍、議論、論者、コンテンツなどをそのつど名指していきながら、ゆるやかに文脈を与えていく。そういう作業にはメルマガは適していると思いますし。
芹沢: そう。あるテーマとあるテーマを、即物的に同じ空間に並べるだけで解決する問題もあると思いますよ。シノドスは即物的にいきたいですね。
たとえば、『批評空間』は「文学」批判をひとつの軸にしていましたね。それは小説の主人公の私的な内面が、そのまま国家に通底してしまうような、個別と一般がショートサーキットを起こす構造を批判するためでした。ここから国民国家批判が出てきたわけですね。彼らが言文一致にあれほどこだわったのはそのためです。
だけれども、『批評空間』はそうした構造を観念的に共有していた気がします。そこでは小説の読み方を変えれば、あるいは小説の書き方を変えれば、それだけでなにか世界が変わるかのような議論がされてきた。いまでは想像もできないけれども、エクリチュールといえば革命が起こるような雰囲気があったのです(笑)。
そうした観念性はおそらく、『思想地図』にも部分的に引き継がれているように思う。でもシノドスは、可能なかぎり即物的で、身軽なメディアにしたい。もっと違った意味での簡単なことで、状況は意外に変わるということを実践したい。