運動の時代と思想の不在(芹沢一也)
こうした世代的な経験をもったものたちが、大正思想をリードする存在となっていくのである。ここで彼らの学歴に注目してみよう。吉野作造は第二高等学校から帝国大学法科大学へと進学した学歴エリート。それに対して、大杉栄は陸軍幼年学校中退、山川均は同志社補習科中退、そして北一輝は佐渡中学校中退。吉野作造のもとに集ったリベラルたちが、みな高い学歴をもった面々であったの対して、それに対抗する左右の勢力は学歴コースから外れたデラシネたちが担ったのだ。
自分探しと戦争、そしてナショナリズムの世代のデラシネたち。こう書いてくると、現代との共通点が浮かび上がってこよう。政治化するロスジェネ世代の問題だ。だが大きな違いもそこにはある。
わたしたちは戦前のラディカリストたちの運動が、総動員体制へといたった末路を知っている。だが注意しなければならないことは、1920年代には、左と右の革新プログラムは、オルタナティヴとしての魅力をたたえていたことだ。だが現在の運動には輝かしい未来が不在である。それは必然的に理念なき運動となるわけだが、実存の問題が理念の不在を埋め合わせているようにみえる現在の運動が、はたしてどのような帰結をもたらすのか。