運動の時代と思想の不在(芹沢一也)
当時既に日清戦争の勝利に依る国民的自信の確立と、大陸進出の端緒を握った民族の発展に伴う事業の活況とに起因する一般青年の活発なる希望とその活動慾、に対する反動として起こったところの、これ等の外面生活に対する批判と懐疑、更に自己内心の要求に従い、精神の自由解放を求めて、みずからの人生の目的を探求し、存在の意味を自覚しようと欲する精神的気運が、一高には動いて居た。……青年のヒュマニズム的要素に一層よく応ずるものとして、同じくヒュマニズムと共に西洋近代精神の産物たるプロテスタント・キリスト教であったことは、もとより当然にして怪しむを要しない。それには当時日本のキリスト教に、内村鑑三、植村正久、海老名弾正の如き有力な人が居って、その結果キリスト教の影響力が大きかったということもある。
明治30年代の知的青年が過ごしたのは、要するに「自分探し」の時代だったわけである。ちなみに、「人生は不可解だ」という遺文を残して、藤村操が華厳の瀧に身を投じたのは1903(明治36)年。あるいは、高山樗牛が煩悶青年のバイブル、『美的生活を論ず』を書いたのは1901(明治34)年である。
こうした傾向は、第一高等学校に通うエリートにのみ限られていたわけではなかった。たとえば、大杉栄は海老名弾正に洗礼を受けているが、当時のことを次のように回想している。「僕は先生(海老名弾正)の雄弁にすっかり魅せられてしまった。まだ半白だった髪の毛を後ろへかきあげて、長い髯をしごいてはその手を高くさしあげて、『神は…』と一段声をはりあげるそのいい声に魅せられてしまった。僕は他の信者たちと一緒に、先生が声をしぼって泣くと、やはり一緒になって泣いた。」時代の雰囲気がわかるだろう。
さて、明治30年代は自分探しの時代であったのと同時に、戦争とナショナリズムの時代でもあった。大正期の政治思想家たちはそれぞれに、日露戦争とナショナリズムの経験を潜っている。吉野作造は日露戦争をナショナリズムの視点から肯定し、幸徳秋水たち平民社のメンバーと対立した。それに対して、海老名弾正の影響から脱した大杉栄、あるいは山川均は反戦運動を繰り広げていた平民社に加わる。同じく社会主義に心酔していた北一輝は、しかしながら日露戦争を義戦だとして、帝国主義と社会主義を和解させようとした。