運動の時代と思想の不在(芹沢一也)
近代日本において右と左が明確に立ち現われたのは、大正時代の半ばである。この時期、19世紀的な進歩思想であるデモクラシー、当時の言葉では民本主義を超克しようとする動向として左翼(アナーキズムとボルシェビズム)が、そしてそれに対抗しようとする動向として右翼(革新右翼)が成立した。簡単な経緯は以下の通りである。
1918(大正7)年、白虹事件が起こる。米騒動という民衆暴動によって全国が揺れていたこの時期、「大阪朝日新聞」が用いた「白虹日を貫けり」という言葉を、革命を意味する不穏な表現だとして警察が弾圧した事件だ。そして、大阪朝日社長の村山龍平が、事件に憤慨した右翼団体、黒龍会のメンバーに暴行を受ける。この暴力による言論弾圧に対して、当時のジャーナリストや知識人たちは沈黙した。そうしたなか、大正デモクラシーの旗手、吉野作造が『中央公論』に、村山龍平襲撃事件を非難する論説を公表した。
この論説によって、吉野作造にも右翼の攻撃の鉾先が向けられ、ついには右翼との直接対決にいたる。浪人会メンバーと吉野作造とのあいだで行なわれた立会演説である。会場には吉野を慕う数百名の学生が繰り出し、「浪人会を葬れ」「吉野博士を守れ」と気勢をあげた。こうした熱狂のなかで生み出されたのが、吉野作造を中心とした黎明会である。当時の代表的なリベラルな知識人たちが集った黎明会は民本主義を高々と掲げて、右翼団体や国家主義者たちの頑迷思想と戦うことを宣言した。
大正デモクラシーのピークをかたちづくったこの運動の傍らに、日本最初の学生運動団体である新人会が東京帝国大学に誕生する。麻生久や赤松克麿といった新人会のメンバーたちは吉野作造の教え子であったが、彼らを社会運動に目覚めさせたのはロシア革命とレーニンだった。つまり、デモクラシーという19世紀的な進歩思想の落し子として誕生した新人会は、ボルシェビキという20世紀的な革命思想に鼓舞されていたわけである。それゆえ新人会は瞬く間に左傾化していった。
こうした流れに掉さして復活したのが明治社会主義者たちである。1920(大正9)年、日本社会主義同盟が成立する。同盟の発起人は堺利彦と山川均、大杉栄ら明治社会主義の生き残りと、麻生久や赤松克麿といった新世代の左翼運動家であった。世代をこえた大同団結によって、社会主義運動は「冬の時代」以来の10年間に及ぶ沈黙を破った。そして、大杉栄のアナーキズムと山川均のボルシェビズムとが対立しながら、日本の左翼はかたちをなしていったのである。