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セミナー#19 片山杜秀(聞き手:芹沢一也 司会:荻上チキ)「中今・無・無責任」――近代日本右翼思想は今に何を語りうるか

日時 2008年5月31日(土) 15時~17時

講師 片山杜秀(聞き手:芹沢一也 司会:荻上チキ)

タイトル 「中今・無・無責任」――近代日本右翼思想は今に何を語りうるか

セミナー概要
 私は『近代日本の右翼思想』という本で、大正から敗戦までの右よりの思想の変遷について論じたつもりです。
 欧米流の近代化が気に入らない。また、伝統的共同体が壊され、個人がアトム化してしまって孤独でつらくて耐えられない。そこで、失われた麗しき過去に立脚して、現状の変革を求める。しかし、右翼が理想化された過去の代表者として最終的に見出だすのは天皇で、そこにアイデンティティを求めるからこそ日本の右翼は右翼らしくなるのだけれど、その天皇が日本の現状の代表者でもあることによって、右翼にあるはずの現状変革のモティーフは現状肯定の方にからめとられていって、変化を求める思想としては機能不全に陥ってしまう。北一輝も大川周明も権藤成卿も、とてもインパクトのある人ですが、その「変革の思想」にどこか肝腎な押しが足りないとすると、理由はそのへんにあるのかと思います。とにかく、うまく先に進めないとすれば、とりあえず解決への処方箋を出すのを先延ばしようという「保留の思想」も現れてきます(典型は安岡正篤でしょう)。さらに、絶対なる天皇を仰ぐ今現在の推移に身を任せて、自力で何かできると考えるな、ありのままの現実をただ受け入れよという、言わば無思想の思想さえ登場します。それは「中今の思想」と呼ぶことができ、三井甲之や蓑田胸喜などがその思想の担い手だったと言えるでしょう。また京都学派の「無の思想」もそこに関係してきます。そしてその先には、人間として歴史や政治や社会や経済のことを考えるのをやめ、ただからだだけを美しく磨いて、死ぬときは潔く死ねばいいんだという「頭なき肉体の思想」さえ出現し、一億玉砕や神風特攻隊をイデオロギー的に援護射撃したのです。
 私は、この道筋を確認することが、現代の日本の問題を考えるために、そっくりそのままということはないけれど、多少は役に立つのではないかと感じています。そもそも私が大正・昭和の右翼にそういう筋書きを見出だしたくなったのには、1980年代にポスト・モダンという言葉が高唱された頃の何とも頼りない時代経験、それに続いて目の当たりにしたバブル期における一種の思想停止状況、平成という、平らかに成って止まっていればいちばんおめでたいという意味上の含みをもった元号の採用への驚き(その提案者は安岡正篤だとも言われています)、冷戦構造崩壊後やバブル崩壊後の推移に対して理性が無力でありつづけたことへの諦念、もうひとつ昨今の武道から美容整形に至る「唯身体教」とでもいいたい雰囲気への興味といったものが、重畳しているからです。
 と、長々と書いてしまいましたけれど、もとより短い時間ですから、何でもかんでもというわけにはいかないでしょう。しかし、とりあえず、「中今」と「無」、そしてそういう思想に対して戦後すぐ丸山眞男が与えた「無責任」という名辞といったあたりを、多少なりとも関係づけて論じられれば、近現代の日本への知見を何か深めていただけるのではないかと信じます。

片山杜秀(かたやま・もりひで) 1963年生まれ。慶應義塾大学法学部准教授(有期、政治文化論担当)。専攻は政治思想史。著書に『近代日本の右翼思想』(講談社選書メチエ)、『音盤考現学』(アルテスパブリッシング)、『音盤博物誌』(アルテスパブリッシング)、共著書に『日本主義的教養の時代』(パルマケイア叢書)等。

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