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2007年07月 ARCHIVES

2007年07月11日

セミナー#05 阿部真大×芹沢一也「働きすぎる若者たち」

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日時 2007年8月4日(土) 14時~17時

講師 阿部真大×芹沢一也

タイトル 「働きすぎる若者たち」

苛酷な労働環境のなかにあって、若者たちはなぜワーカホリックになっていくのか。今回のセミナーは社会学者の阿部真大氏をお招きする。阿部氏は好きなことを仕事にする「元気な男の子たち」のバイク便ライダーと、「優しい女の子たち」のケアワーカーの職場に参与観察することで、彼ら、彼女たちがワーカホリックになるさまざまな仕掛けを明らかにした。それではそうした仕掛けから逃れる術はどこにあるのか?現在、社会学が与えることのできる処方箋を示したい。

セミナー概要
専門性を確立することで無制限な労働に歯止めをかける。明確なジョブディスクリプションを作成し、細かな職階を決める。これを「キャリアラダー(キャリア階段)」と呼ぶとすると、現在、不安定就業者たちの世界で求められているのは、ワーカホリックを防ぐための早急なキャリアラダーの構築である。注意しなくてはならないのは、キャリアラダーの議論は、しばしば、ネオリベラリズム的な言説(「自発的な社会参加」への動員)と共振してしまうのではないかとの疑義が差し挟まれることもあるが、実際のところ、この発想はそういったものとは無縁であるということだ。キャリアラダーにおける「ラダー」のイメージをあまり大したものと考えてはいけない。時給800円から出発して最後は年収500万円の正社員、などというようなラダーではなく、せいぜい時給800円から時給1500円の間のラダーである。それは、労働者の短期的なモティベーションを喚起するというよりは安定性を確保するという目的をもっている。セミナーでは不安定就業者のワーカホリックを防ぎ、未来の予測可能性を確保するためのキャリアラダーの構築に関する研究を紹介し、ワーカホリックの問題を社会学的なアプローチから解きほぐしていく。

阿部真大(あべ・まさひろ) 1976年岐阜県岐阜市生まれ。東京大学大学院博士課程を経て現在、学習院大学非常勤講師(社会統計学)。2006年に自らのバイク便ライダー体験をもとに執筆した『搾取される若者たち』(集英社新書)でデビュー。2007年にはケアワーカーの労働実態をまとめた『働きすぎる若者たち』(NHK生活人新書)を刊行。現在調査中の配管工の世界を描いた『管の都市』(仮題)と併せて「労働3部作」を予定している。他に、「合コンの社会学」(北村文との共著)を「本が好き!」(光文社)で連載中。


2007年07月15日

本田由紀『多元化する「能力」と日本社会』書評

「「ポスト近代社会」において、メリトクラシーは「近代社会」におけるそれよりも、ある種純化された、かつ、より苛烈なかたちをとる」。そしてそうした事態は、いわば〈生〉そのものが労働に動員されていくことを意味している。耐久消費財を大量生産・消費するフォーディズム的な社会にあっては、社会的地位の選抜・配分を決める評価基準は標準化可能な学力や学歴であった。ところが高度消費社会化とともに情報化とサービス化が進むポストフォーディズム社会では、評価基準が個性や創造性、ネットワーク形成能力といった「ハイパー・メリトクラシー」となる。そこでは人間の全人格が不断の評価の眼差しに曝されるが、「単に勉強していればよいだけでなく、意欲や創造性、柔軟な対人関係までもが日々の生活において不断に求められる状況は、「社会」が「個人」を裸にし、そのむき出しの柔らかい存在のすべてを動員し活用しようとする状況にほかならない」。かつてポランニーは次のように述べた。「市場メカニズムに、人間の運命とその自然環境の唯一の支配者となることを許せば、…社会はいずれ破壊されてしまうことになるだろう。…文化的諸制度という保護の覆いが取り去られれば、人間は社会に生身をさらす結果になり、やがては滅びてしまうだろう」。新自由主義化の激流に呑み込まれつつある世界は、ポランニーのこの予言を忠実になぞりつつあるようにみえる。しかも総力戦体制への国民の動員、共産主義国家への対抗と革命の予防、高度経済成長を支える消費者の育成といった、かつて労働者、あるいは国民の生存への配慮を生み出した条件はもはや存在しない。そうしたなかフレキシブルな労働市場において、保護の覆いをはぎ取られた個人が、その剥き出しの〈生〉を極限まで活用されている。本田由紀はこうした事態に対抗するために、「専門性」という鎧を身に纏うことを処方箋として提示する。「「専門性」という「鎧」を身につけていれば、…個々人は、あらゆる事柄に対して自分があまねく「意欲的」で「創造的」であることを示す必要はなくなる」。その実効性については異議が唱えられることもあるだろう。だがそれはポスト近代社会の不可逆性を認識した上で、あるいは「使い捨て労働者」が労働者のプロトタイプとなっている現状を行き抜くために、若者たちに何とか武器を与えたいと願う思いが結晶化したものなのだ。亢進するハイパー・メリトクラシシー化から若者たちを守ること、本田由紀の営みと熱情はただこの一点にのみ向けられている。