main | 2007年4月 »

2007年3月 ARCHIVES

2007年3月21日

Synodos(シノドス)とは?

Synodos(シノドス)は日本社会の〈現在〉を多角的に検討する知の交流スペースです。

Synodos(シノドス)とは?
ギリシア語で「集会」の意をもつシノドスには、「惑星の合」や「ともに道を行く」という意味があります。別々の軌道を移動する惑星や、別々の道を行く人びとが、或るとき或る場所でその道を交差させること。わたしたちは、主義主張や専門のちがいとは無縁に、まずは互いの存在を交差させ、ひととき道を共にし、互いのあわいに生じる触発の出来事に身を委ねます。シノドスとはまた、戦争でもありセックスでもあります。それは、エロスとタナトスという欲動のうちで、人びとが自らの境界を他者と融かしあう場所であるかもしれません。わたしたちはこの場所に集うことで、互いの知と記憶のうえで道を共にし、諍い惹かれあいながら、再び別れてゆくでしょう。いずれまた互いに別の軌道、別の道を行くにしても、こうした遭遇の後では、集う前にはありえることのなかった新たな変化が互いのなかに兆しているにちがいありません。シノドスは、日々新たに生成する集いをつうじて、わたしたちが生きる〈現在〉を明らかにすることを目指す歓待の場なのです。(山本貴光)

芹沢一也 (せりざわ・かずや) :Synodos主宰
慶應義塾大学大学院社会学研究科博士課程を修了。慶應義塾大学、京都造形芸術大学、朝日カルチャーセンターなどにて講師。社会学を専攻する傍ら、大正期を中心とする近代日本の思想や文化、社会に研究分野を広げる。専門は近代日本思想史・文化史。著書に『犯罪不安社会』(浜井浩一との共著、光文社新書)、『ホラーハウス社会』(講談社プラスアルファ新書)、『狂気と犯罪』(講談社プラスアルファ新書)、『〈法〉から解放される権力』(新曜社)。現在、朝日新聞社『論座』にて季評を連載中。

(最終更新日 2008.04.01)

セミナー#01 高原基彰×芹沢一也「ネオリベラル権力批判の陥穽」

日時 2007年4月1日(日) 14時~17時

講師 高原基彰×芹沢一也

タイトル 「ネオリベラル権力批判の陥穽」

少年犯罪と若年雇用という二人の研究領域において、90年代後半以降に浮上したトレンドはまったく同型的である。それは高度成長期に社会的な合意を得たパターナリズム、すなわち少年法体制と会社主義システムの崩壊として生じた。また、そうした崩壊現象に対する評価のあり方と対立軸も一致している。少年犯罪の領域における厳罰化批判と保護主義批判の対立、そして若年雇用の領域でのネオリベラル批判と既得権益批判の対立である。しかも、いずれの領域においても、ふたつの批判の立場はかみ合わないまま、なし崩し的に事態は悪化しているようにみえる。本セミナーでは原理的な次元での議論を踏まえつ、こうした現状を批判的に読み解くことを目的としている。

芹沢一也 法と秩序、あるいは「法か秩序か」
かつて犯罪を起こした少年は一面的な保護の対象であった。だが、97年の酒鬼薔薇事件以降、そのような保護主義は説得力を失い、少年への望ましいとされる処遇が保護から厳罰へと転換した。こうした動向に対する厳罰化批判は、犯罪被害者の応報感情を抑えることができない。とはいえ、保護主義批判も刑事政策的な合理性と齟齬をきたしている。両者の批判がまったくかみ合わないなかで、問題は刑事司法と防犯活動へと拡大され、現在、社会の全域でセキュリティへの意志が暴走している。M.フーコーのテクスト「レモンとミルク」を参照しつつ、「法と秩序」の問題として現状について議論してみたい。

高原基彰 構造改革と「ふたつの墓堀人」
小泉政権以来、本格化した構造改革をめぐって、ふたつの認識が対立している。一方には悪しき市場主義の一例だとするネオリベラル批判、そして他方では市場を疎外してきた非合理性の是正だという既得権益批判。否応なしに進む構造改革に対して、既得権益批判を全面化するのはもちろん危険である(正社員制度そのものの否定)。だが、単純なネオリベ批判を行なうことによっても、過去の雇用システムがノスタルジーとして呼び出されるだけである(正社員への強迫的な憧憬)。それではいま必要なの作業は一体何か。官僚制と個人化という社会学の概念を踏まえて議論してみたい。


高原基彰(たかはら・もとあき) 1976年神奈川県生。東京大学院博士課程。専攻は社会情報学で、特に日韓中の開発体制の変容に伴う社会変動を研究している。著書に『不安型ナショナリズムの時代』(洋泉社新書、2006年)、共著として『若者の労働と生活世界』(大月書店、2007年)がある。
オフィシャルブログ:高原基彰blog

2007年3月27日

高原基彰『不安型ナショナリズムの時代』書評

過熱するネット世代における日韓中の対立関係。嫌韓、嫌中という言葉によって象徴されるように、インターネット上では韓国、中国に対する罵詈雑言が繰り返されている。呼応するかのように、韓国や中国においても反日感情は高まるばかりだ。東アジアのナショナリズムの応酬を前に、いわゆる「左」を自認する論者は、自国の若者たちの右傾化を批判し、中国や韓国での反日感情の高まりを憂える。だが、そこで想定されているナショナリズムは「のっぺらぼう」だ。もちろん、それは「左」に限ったことではない。ナショナリズムについてはこれまで、「左」と「右」とのあいだで全否定か全肯定かといった、いわば神学論争ともいうべき議論がつづいてきた。あたかも国民全体が同じひとつのイデオロギーに染め上げられるかのごとく、それが絶対的な正否と善悪の価値観のもとで論じられてきた。だが、この左右対立という図式は、現在生じている新しいナショナリズムを読み解くのに、はたして有効なものなのか。このような問題提起のもと、本書は従来のナショナリズム論とはまったく異なった分析枠組みを構成する。カギとなるのは、タイトルにある「不安型ナショナリズム」という概念だ。本書によれば、論ずべきは若者の心の問題でもなければ、その政治意識の内実でもない。あるいは、問題の核心にあるかのように語られている歴史問題などでもない。分析の舞台として設定されねばならないのは、「社会流動化」という巨視的な社会経済構造の変動であり、この舞台で発生している「若者の不安」こそ論じられるべき当のものなのだ。社会流動化というトレンドは、現在、日韓中三ヶ国に共通して生じている。そして、新しいナショナリズムは、この社会流動化にこそ起源がある。だからこそ、若者の右傾化であれ反日感情の高まりであれ、従来のような各国を完全に別個のものとするナショナリズム論では捉えられないものなのだ。3ヶ国間で野放図に拡大する新たなナショナリズムの相克を、日韓中それぞれの社会構造の変動を同時に視野に入れながら、若者の不安というグローバルな現象から読み解こうとすること。この壮大な試みが本書の目論見である。日韓中を横断する共通の枠組みを析出するために、本書は高度成長に伴う総中間層化とその「夢」の終わり方に目を向ける。60年代の日本、80年代の韓国、2000年代の中国と、この3ヶ国には高度成長期が訪れた。そして現在、いずれの国でも高度成長体制が終焉を迎えている。社会流動化はその終焉の表現にほかならないが、市場競争の世界に剥き出しに投げ込まれる「個人」、ことにその影響を直接に受けている若者の不安が、「個別不安型」ナショナリズムと名指すべき新しい潮流を育んでいるのだ。 現在の不安型ナショナリズムはこのように、あくまで経済構造に起因する現象である。にもかかわらず、それは国民の統一感を醸成するために呼び出される、従来的なナショナリズムと混同されてしまっている。そうしたなかで、日韓中いずれの国でも、雇用や階層分化といった国内的な問題であるはずのものが、反日感情や反韓・反中感情というかたちで外部の「敵」に転移している。つまり、日韓中のナショナリズムというのは、真の問題から目を逸らす擬似問題として機能しているわけだ。それゆえ、いま何よりも必要なのは、旧来のナショナリズムから新たな不安型ナショナリズムを理論的に切断することだ。新しい問題構成をつくりあげねばならない。これまでなされてきた「作法」で、単純に右傾化を危惧し、批判してみたところでまったく意味はないのだ。このことはとくに日本にあてはまる。社会流動化が世界的に進行する現在、韓国や中国よりもむしろ日本で、総中間層社会のイメージ=「夢」がいまだ色濃く残存しているために、旧いナショナリズムに問題が回収される傾向がきわめて強固であるからだ。日本の知的言説がもつそうした傾向をラディカルに批判する本書は、不安型ナショナリズムの擬似的な性格を鮮やかに暴きながら、それを生活や経済といった本来の問題に着地させようとする。そのために踏破された領域は広大なものだ。フリーターやニートといった問題が、雇用という巨視的な社会構造において分析される一方で、大衆文化論、ポストモダニズム、カルチュラル・スタディーズ、宮台真司、そして三浦展が、戦後日本の文化論を総括するかのように論じられる。韓国と中国が取り上げられる章では、両国でナショナリズムがいかに生まれ、変容していったのか、それが現代的な若者の不安となぜ結びつくのかが、戦後史という大きな流れのなかで描き出される。かくして、現在の若者の不安が、3ヶ国にまたがる等身大の視点で提示されるのだ。現在、「若者論」が隆盛だ。だが、そこで若者は発言する主体ではなく、分析対象としての「問題」であるにすぎない。76年生まれの著者による本書は、いわば当事者による新たな問題構成の提示である。先行世代が形成してきた左右それぞれの枠組みを冷静に批判する語り口は、まさに著者が現代を生きる若者の一人だからこそ可能なものであろう。その究極的なメッセージは、ナショナリズムという政治的なものによる目晦ましを取り除き、経済的なリアリズムの観点から国家と政治を使いことなそうというものだ。